物心は完全にあり、かなりエピソードが豊富になっていきます。
低学年
勉強
まずは勉強できたかといえば、普通よりちょっと劣るぐらいですかね。
得意な科目は図工。苦手だったのが算数でしたかね。計算がほんと苦手というか嫌いでした。
今もそれはあって、計算ができないです。でも、生きる上での計算は得意なんですけどね。笑
図工はほんと好きでしたね。物を作ることが好きで、幼少時代の没頭するの部分に近いのかもしれません。
後は理科が好きでしたね。これも何かを実験したりすることが面白かったですね。
これだけ聞くと物作りが好きで実験が好き。研究家になるのかという感じです。
学校
学校では普通にお勉強してました。成績もぱっとしないとお話した通り図工、理科以外は本当に楽しくなかったですね。
むしろ記憶がないです。笑
友達はごく一般的にいて、遊んだりもしましたが、普通の男の子とは違ったところがありました。
それはなぜか私は男の子と遊ばなかったんです。いつも女の子と遊んでました。今となってはなんでそうなったのかは不明ですが、特に下心なんかこの頃にはないので女の子の方が接しやすいということだったのかもしれません。
高学年まではほぼ女の子としか遊んでません。笑 (ここだけ読むかなり不純に感じますが)
また、演劇会とかがあったんですが、自分が劇のストーリーやキャラを作り、わたし以外全員女の子と劇をしたこともあります。棒にキャラクターをつけて、人形劇みたいなイメージです。
どんだけ女の子なんだって感じですが、友達ですよ友達。笑
放課後
学校が終わると共働きでしたので、近くの児童館に行く毎日でした。
児童館では遊ぶものがたくさんあったので遊びには困りませんでした。
特に真っ先に行くのが図工室というかはわかりませんが、工作ができる部屋です。
その時によくやっていたのが型紙を使って、ビー玉を転がして楽しむものを作ってました。
わかりやすくイメージできるもので言うとピタゴラスイッチのようにビー玉が転がっていろんな経路を転がるようなものを作ってましたね。
とにかくものを作るのが好きでしたね。
それが今の職業などに活かされているのかもしれません。
高学年
いじめ
わたしはこれと言ってリーダーシップもなく、1人で遊ぶタイプでもありましたが、1つだけ特徴があるといえば、恥ずかしいと顔が真っ赤になってしまうことです。
これは、他の人よりも本当に真っ赤になるので、その部分がいじめの対象になっていくことになります。
その光景を見ようとしていじめてくる人がいました。
そして、真っ赤になった状態で耐えきれず泣いて、暴れだす癖もありました。
それが更にいじめを助長していたのかもしれません。
じゃあ、反抗すればいいじゃんと今は思うのですが、なぜ当時できなかったかはよくわかりません。
今だったらいじめてきたらすぐやり返しますけどね。笑
これは中学時代でも続きます。。。
ゲーム
うちは裕福な家庭でもなかったので当時流行っていたファミリーコンピューターがありませんでした。
もちろん、誰でも持っていたわけではないですが、持っている友達の家に行って遊ぶ感じでしたね。高学年では男の子とも遊ぶようになりした。
放課後何をしてたかといえば、友達の家に行ってゲームするばかりでした。
ただし、そういう子は多かったので友達の家に行った時にすでに満員というか断られることもありましたね。
その時は一人で家で違う遊びをする感じでしたかね。
鍵っ子でしたので、家に帰っても1人。ゲームが好きなので当時は駄菓子屋さんとかでゲーム機があって1回30円とかでゲームができました。
家にゲームがなかったので、ほぼ駄菓子屋に行って、他の人のゲームを観戦したりしてましたね。
ゲーム好きは今のシステムエンジニアに活かされているのかもしれません。
プログラミングはゲームとちょっと似てますからね。
サッカー
運動はごく普通でしたが、6年生の時に学校のサッカークラブに入ることにしました。
何故かはあまり覚えてないですが、カッコイイとかだったような気もします。
1年間辞めずに全うしました。センターバックでしたが、点数決められまくってましたね。。
はっきり言って今振り返ると下手くそでした。笑
ここからわたしのサッカー人生が始まります。
卒業文集担当
ここからわたしが小学校時代に残したものがあります。それは卒業文集の担当です。
わたしが担当したのは組ページの表紙でした。6年2組でしたかね。
何を表紙にしたかというと運動会で組体操の塔の絵を描きました。
書くと言っても写真を見て模写といいましょうか。
ただ、それなりに見た目は悪くないとは思います。図工が活きていたということですね。
ここまで聞くとはやり物作りが好きの一点張りでしょうか。
アウトドア派よりインドア派の方でした。
家庭環境
わたしの家は父親が催事でデパートでお惣菜などを売る仕事をしてました。
ただし、父親は仕事をころころ変えたり、長続きしなかったです。
実際、何の仕事をしていたかがあまりわかりませんが、メインは催事なのは間違いないです。
父親はギャンブルが好きで特に競馬とパチンコばかりしてました。
給料日になると数日間は家に帰って来なくなります。
そんなことあるのかと思いますが事実です。そして、帰ってくるとすでにお金はなく母親に怒られるという、一言でいうとダメな父親でした。
じゃあお金はどうしたの?ですが共働きですので母親の収入でやりくりしてました。
母親は水商売で夜をメインに仕事をしてました。その水商売の仕事は祖母がやっているお店を手伝っていた感じです。
家に関しては昔に建てた祖母の家をそのまま使っていたので土地もローンも無かったのでお金がひっ迫することは無かったのでそれが唯一の救いでした。
ただ、この辺が難しい問題なのか、祖母がかなりのやり手だったんですよ。
実は自分でスナックを経営し、老後のお金は安泰ぐらい稼いだスーパーおばあちゃんだったんですよ。
なので、うちの家庭のお金はなかったですが、ピンチになると祖母がお金を援助してくれたりもしてました。
祖母は家の隣に住んでいたので祖母には本当に可愛がられましたね。
今はもう亡くなってしまいましたが、本当に感謝しております。
兄弟ですが、3歳上の姉がいて、弟の立場。何でも姉が強くていつも負けてましたね。
姉は当時のわたしと違って、言いたいことはすぐ言うし、結構リーダーを貼るタイプでした。
それがのちの中学時代でわかることになります。
まあまあ、変わった家庭かどうかはわかりませんが、幼少時代よりかなりエピソードが増えましたね。
中学生時代で更に思春期を迎え深いエピソードに繋がっていきます。